今朝アップしたこちらの記事のつづきです。
女性は大変?産まなくても叩かれ、産んでも働いたら叩かれ、専業でも叩かれ。
長女が「パンが英語の形に見える!」と言い出し、
次女が「
「英語に見えるでしょ!」「パンでしょ!」
「みんなちがって、みんないい。」を伝えたい。
全員がパンにしか見えなかったら、社会はどうなるんだろう?
全員が同じ意見の場合
全員が口をそろえて、
「これはパンだね。」
「うん、これはパンだ。間違いない。」
終了。
どんなに話を進めようにも、
それ以上、話は進みません。
「これは、パンだね。」
「うん、間違いなくパンだよ。」
頑張っても、
「this is bread.」くらい?
話がなんにも広がらない。
いろんな意見がある場合
それが、もし、一人が「英語の形に見えるよね?」
「いや、コレはパンにしか見えない!」と他の全員がその意見を黙殺したら、
結局話は振り出しに戻って、
「これは、パンだね。」
「うん、間違いなくパンだよ。」
で終了。
でも、そこで、
「え?英語に見える?」「どうやって?」
「う~ん。見えないなぁ。」「英語に見るコツは?」
「英語以外にも、見え方あるのかも?」
などなどその違いを楽しむ心があれば、無限に会話は広がります。
会話だけでなく、今まで自分には見えていなかった世界が、
相手の価値観を認めたとたんに見えてくる。
「私はこういう風に見えるけど、
「私達、違う風に見えてるね。」
それだけで、見え方は違ったままでも、
共感し合える。
「違うんだね。」という共通認識を持てるって大切で。
「私達は分かり合えないということを、分かり合えた。」
ってだけでも十分意味があると思います。
人と自分の違いを見つけて、それを面白がることが出来たら、
きっと世界は広がります。
違いを否定的にとらえるんではなく、違いを楽しむ心の余裕を
子供達に伝えていきたい。
「みんなちがって、みんないい。」
その言葉の意味をきちんと理解して、どこまでそれを子供達に伝えられるか、
それが今の私の課題です。
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